白熱電球
タングステン電球とかハロゲン電球という名前で親しまれている、もっともオーソドックスな電灯である。
このランプの原型を発明したのは、米国人トーマス・エジソン(Thomas Edison)で1879年のことである。
発光原理はシンプルで抵抗体に電気を流すとジュール熱により高温発光が起きその光を利用している。
ランプの開発は高温に耐える発熱体の開発、酸化を防止するランプ構造(真空電球)の開発が主なものであった。
抵抗体に電気エネルギを大量に与えて高温にすれば高輝度発光が得られるが、自らの発熱で蒸発が促進され寿命が短くなる。
現在、白熱電球は比較的安価であるため、日常生活に幅広く使われている。
反面、熱の発生が大きいことや(消費電力の約90%が熱に変わる)破損しやすい欠点があり、白熱電球よりは高価な蛍光灯と併用され利用分野を分け合っている。
電気エネルギを使用した灯火が果たした役割は「改革」と呼ぶにふさわしいインパクトがあった。
エジソンのランプ―エジソンの執念―
1879年10月19日、エジソンはメンロー・パークの実験室で炭素繊維(木綿糸を炭化した炭素繊維)を発光体とし、これをガラス球の中に入れて空気を1/100まで抜いて電気を流したところ、継続して40時間程度光り輝いた。
実験が終了した2日後の10月21日がエジソン電球発明記念日とされている。
エジソンが1879年に発案した炭素線白熱灯は、その2年後のパリの電気博覧会でさらに広く公開された。
博覧会の公開から実用化までにさらに改良が続けられた。
発光時間を長くするため、バルブ内の真空度を増す技術向上もさることながら、フィラメントの選定に6,000種以上の物質が試されたという。
実験の中で良い成績を残したのが竹であった。
エジソンが竹に注目したのは偶然だった。
エジソンがたまたま手にしたシュロの団扇の骨組みに使われていた竹を見つけ、これを炭素化したところ抜群の成功をおさめたのである。
最終的に、日本の京都の竹を材料にした炭素繊維で耐久性を増し、ガラス製のバルブの中に固定して使いやすく長寿命の白熱電球を開発した。
エジソンの炭素白熱電灯の開発では研究開発史上初めて組織的な材料探索が行われた。
10万ドルの資金を投入して20人の科学者を全世界に派遣して、6,000種にのぼる植物繊維を収集したといわれている。
その結果選ばれたのが京都・八幡の竹であった。
筆者はエジソンのランプに京都の竹が使用されていたことは知っていたものの、なぜ京都の竹が選ばれたのかはわからなかった。
当時、フィラメントを製造する原材料で大事なのは、材料の繊維構造が菌類や腐敗によって崩れていないことであった。
エジソンがランプ工場を立ち上げたとき、1週間ものあいだ良質の電球が製造できないことがあったのは中国から輸入した竹が腐っていたためだった。
エジソンが最適なフィラメントを求めて行く過程の初期に使っていた紙の炭化によるフィラメントも、構造上適切でないことがわかっていた。
その理由は、紙は短い繊維の集まりでできていてそれが不規則でたえず入り乱れているため、それを炭化してフィラメントとしたときにフィラメント内部に狭い空隙が生じその間で微細な火花を発する。
フィラメントがすぐ切れてしまうのは、おもにこの火花のせいであった。
この理由により、エジソンは1本の適切な繊維を求めて炭化実験を行い、気の遠くなるような植物の素材を求めていったのである。
彼は前述したきっかけで竹の繊維がとくに適切であることを発見し、最適の竹の繊維を求めて世界をまたにかけた探索が開始された。
彼らのブループは、南アメリカのジャングルや中国の荒野まで横断していった。
ついに、日本で見つけたある種の竹から、とりわけ一定した良い繊維がとれることがわかった。
エジソンは、日本の農場主と納入契約を結び、フィラメント材の栽培を目的とした竹の大農園(プランテーション)を作ったのである。
その後、繊維のない合成のフィラメントが現れて、製造法は一変した。
最初に使われた素材はセルロースであった。
セルロースをどろどろに融かして噴射口から押しだすとたちどころに固形するため、直径に寸分の狂いのない無限に長いフィラメントを作ることができた。
これを巻き上げて、フィラメントの孤の長さに切断した。
これに続く金属合金も同じ方法で製造された。
最初の実用金属フィラメント灯―オスミウムランプ―は、1898年にアウアー・フォン・ヴェルスバッハ.(オーストリアの化学者、技術者)の手で作られた。
彼は、数年(1896年)前まではガス灯に希土類合金を入れ、これにガスの焔を当てて加熱し、その輻射発光を利用した灯りを作っていた。
これは単なるガス灯より数倍も明るかった。
その技術をフィラメント材料に応用したのである。
1900年代には、じつに多種多様な金属合金からフィラメントがつくられ、そのたびに光度を上げることができた。
第一次世界大戦が勃発する数年前の1910年、米国GE社のクーリッジによって引線タングステン電球が開発され、タングステンフィラメントが体勢を占めるようになった。
白熱灯は、これによってようやく完成の域に達した。
タングステンの登場によって電灯は赤味を帯びた微光から現代の300W球に相当するまぶしいほどの白い大量の光を生み出すようになったのである。
エジソンの発明の背景には上にも述べたように彼一流の卓越性と技術的バックボーンとそれを持続させた執念があった。
それにもまして、彼の先見性も見逃すことができない。
彼の先見性とは、ガス灯を電気灯に置き換えることであった。
したがって彼が開発しようとしたランプは、明るさ、輝き、使い勝手をすべてガス灯に模倣した。
唯一違うことといえばガスを使わないため安全であるということであった。
エジソンはこのランプを主軸にして電力事業まで展開するのである。
白熱電灯は、J.W.スワンが同様な原理の電灯を発明し、その結果エジソンとの間で特許争いが生じた。
しかしエジソンとスワンは法廷での白黒より和解を選んだ。
1883年エジソン・アンド・スワン電灯会社が設立され、2人で利益を分かち合う道が選ばれた。
この会社が後に世界的に有名なGE(General Electric)社の母胎となった。